君中心









例えば近くに世界が終わるとしよう。

一体誰が困るというのか。

幸せな生活はいつか終わる。

ならばその終わりが明日でも構わないと僕は思う。



ある夫婦には一人の子供がいた。

その子供は一人で生きていくことはできない。

その理由はあえて触れないでおく。

その夫婦は命に代えても子供を守ると誓った。



ただ一つ不安があった。

「もし僕たちが死んだら、あの子はどう生きていくのだろう。」

このままいけば、子供よりも先に死ぬ。

不安の上に成り立つ幸せは幸せではない、と彼らは悟っているだろう。



もし終わると知れば、きっと彼らは真の意味で幸せになれる。

子供と一緒に死ぬことができる。

もう不安に苛まれることはない。

彼らは幸せになれる。



この世界を続かせることは、必ずしも良いことではない。

それはきっと多くの場合で不幸なことだろう。

ではなぜ僕らは戦っているんだろう。

使徒に好きにさせれば僕たちの平穏な生活は終わるというのに。



死があるからこそ、生が実感できるように、

終わりがあるからこそ、今を大切にしようと思える。



だから人は今を守ろうとするのだろう。

何か変だ。



終わりがあるから今が大切だと知る。

だから人は今を守る。

しかし、いつしか今は当たり前になり、日常に溶け込む。

今を守ることによって、今の大切さを知ることはできない。



儚く散る花火は綺麗だ。

ずっと光る蛍光灯は綺麗、ではない。

僕は花火でありたい。

一瞬でもいい、美しくありたい。



僕には与えられた力をどう使えばいいのか。

教えられたことが正しいとも思えない。

ならばどうする?

馬鹿げた禅問答を繰り返す日々が続く。



いつの間にか気づいてしまった。

意志ある者が意思なき者を騙していることに。

僕も何かのために、誰かのために戦おう。

生まれて初めて、拳に力が入った瞬間だった。







さあ、君のために戦おう。