毎朝歩いたあの道や、

 いつも受けていた授業の内容、

 淡い記憶は少しずつ片隅へと追いやられていく。



 でも、「あの坂」だけはずっと、

 俺は忘れたくても忘れられないでいる。



 ただ、偶然に忘れないで居るだけなのか、

 それとも、ただ懐かしい思い出として強く残っているだけなのか。



 何も分からないまま俺の意識は遠のいていく。

 深く、どんどん、深く僕は落ちていく。

 儚く寂しく過ぎ去った由美との思い出の世界へ。




(ったく、坂はキツイな・・・。)



 いつもの通学途中にあるやけに急な坂。

 大回りすれば緩やかな坂を歩けばしまいなのだが、

 この坂を上れば直ぐに校舎につくため、

 案外今朝早くでも人は賑わっている。



 そんな坂を俺と由美は毎日上り、

 来る日も来る日も、ぜいぜいと息を漏らしながら、

 なんやかんやで楽しく愉快に通学していた。



「ふぅ、やっと着いた・・・。」



 両手を両膝の上において、はぁはぁと強く深呼吸しながら、

 まだ坂を上っている途中の由美に俺は目を向けた。



「おい、由美。

 早く上りきってこいよぉ。」



「だめ、もう、わ、たし、死んじゃ、う・・・。」



 死ぬって自分で言いながらも、

 なんとか地道に上へ上へと上っていく由美。

 息を切らし、笑顔を取り繕い、

 一生懸命に上ってくる由美を俺は見つめた。



「見てる、だけ、じゃなくて、なんとか、してよ。」



 ようやくの事で由美は坂を上りきった。

 横でぜいぜいと息を吐きながら、

 ブツブツと文句だけはハッキリと俺に言ってくる。



「頑張れ、ゴールはすぐそこだぞ、由美。」

「もう、遅い、わよ!・・・」




(ん・・・夢、か・・・。)



 淡い青春時代の世界を悲しくも後にし、

 ガタゴトと揺れる電車の椅子から無意識に立ち上がる。

 いつも下車している駅とは違ったが、

 今日は少し寄り道していくことにした。



「懐かしいな・・・。」



 ふと意識が確かになった頃にはもう遅く、

 俺は坂を上り始めていた。

 何故、坂を急に上ろうとしたのかは、

 自分でも理解はできていなかったけど、

 そんな事は気にも留めていなく、

 "気がつけば"という曖昧なものだった。



「あれ、前より急になったかな。」



 昔に比べて比較的に下の方の辺りから、

 既に足は悲鳴を上げそうなぐらいキツく感じた。

 この頃碌な運動もしてなかったからなぁ、と、

 一人寂しく溜息を吐きながらも、

 なんとか気を引き締めて坂上りを再開した。



「くっ・・・・、はぁ、はぁ。」



 必死の思いでなんとか坂を上りきった。

 今は真夜中ということもあって、

 人通りは全くなく、お構いなしに地面にひれ伏した。



「きれい、だな・・・・。」



 空一面を埋め尽くす満面の星。

 少しの間、ふと見惚れてしまい、

 地面に寝転がっていることを忘れてしまった。



『きれいね・・・・。』



 何処からか由美の声が聞こえた気がした。

 そうだね、と軽く呟いて、

 向こうに広がる闇に小さな笑みを浮かべる俺。

 こんなやりとりは妄想に過ぎないのだろうけど、

 今の俺にとってはそれだけで十分だった。



 今はもういないけど、由美は確かにここにいた。

 それだけで俺の心は満たされた気がした。



『もう、帰るの?』



「・・・もうこんなに遅いしな。

 また、此処に来るよ、由美。」



 時計を見ると、朝の1時を過ぎていた。

 かなり慌てながらも、母校を一通り見渡す。

 そっと目を閉じ、肌に当たる空気を感じた。

 妙に新鮮に感じるこの空気の感触に合わせて、

 また由美が俺に語りかけてきた。



『またなんて言ってるけど、

 別に無理して此処に来なくてもいいんだよ。』



「無理とかそんなんじゃないよ。

 俺は由美に会いた―。」



 俺の言葉を遮るかのように、

 空気の流れる気配が止み、

 由美の声が前にも増してハッキリと聞こえた。



『私はもうここには居ないんだから。』




 俺はあの由美の言葉を最後に、

 懐かしいあの坂を後にし家に帰った。

 途中、無性に泣きそうになったけど、

 なんとか必死に、無理にでも堪えた。



 あの由美の声は一体何だったのだろう。

 今思えば摩訶不思議で仕方が無いわけだけど、

 少なくとも由美と話をする事が出来て、

 訳の分からないモヤモヤからも吹っ切れた気がした。



「よし、頑張るか。」



 時計の針がまだ6時を指しているのにもかかわらず、

 何故か家を飛び出して、急ぎに急いで駅へと向かう。

 無我夢中に、一歩一歩に力を入れて走った。

 汗が滲んでシャツを汚し、綺麗に結んだネクタイも解ける。

 それでも、俺は一生懸命に走った。



『頑張れ、幸人。』



 一瞬、由美の声が聞こえた気がした。

 でも、それは多分気のせいだろう。

 それに今はそんなことより、走る事の方が大事だ。



 がんばれ、ゴールはすぐそこだぞ、幸人。



   
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